LOGIN午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。
濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。
美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。
磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。
「これ、透のです」
美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。
左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。
高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。
イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。
澪は河原の暗がりを見た。
七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。
その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。
確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。
「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」
蓮司の言葉に、美月は頷いた。
だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。
通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。
落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。
「中に何か入ってる」
悠斗が顔を寄せる。
「ここで開けるのか?」
「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」
朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。
許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。
内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。
「また記録媒体」
奈々香の声が小さくなる。
返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。
朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。
透は音響機器の扱いに慣れており、自分で隠したとしても不自然ではない。
六人は橋の上へ戻り、車のボンネットを簡易の作業台にしてカードの複製を取った。
外気はさらに冷え、川から上がる湿気が指先へまとわりつく。
奈々香は何度も周囲を振り返り、さっき透が立っていた河原へ視線を落としていた。
誰かがまた同じ姿で現れる気がするのか、欄干へ近づこうとはしない。
朔が読み込んだカードには、音声ファイルが十数件保存されていた。
多くは透が日常的に行っていた音響テストらしく、周波数、機材番号、環境音の比較を口頭で記録したものだった。
最終更新日時を確認した美月が画面を指し、七刻女学校へ入る日の夕方だと告げる。
澪も時刻を確認し、透が放送室で殺される数時間前に、このカードへ何かを残していたことを理解した。
「死んだあと誰かが書き換えてない?」
「記録上は更新されてない。時刻情報だけなら改変できるけど、ファイル構造にも後から追加した痕跡は見えない」
朔は断定を避けた。
完全に偽装を否定することはできないが、少なくとも透自身が使っていた機器へ事前に記録した可能性が高い。
蓮司は最初の音声を再生するよう促した。
スピーカーから小さな呼吸音が流れた。
少し離れた場所でパソコンのファンが回り、キーボードを叩く音がする。
数秒後、透の声が聞こえた。
「これを聞いているなら、俺はたぶん戻れない」
奈々香の肩が震えた。
声は今夜電話で聞いた透と同じだが、こちらには部屋の反響があり、録音した状況がはっきり分かる。
澪は胸の前で腕を組み、続きを待った。
「澄花の音声を解析していて、変な規則を見つけた」
透はそこで一度息を吐き、机の上の紙を動かしたらしい音を立てた。
「八年前から残ってる音声に、時刻が入ってる。録音機器の情報じゃない。声とかノイズの中に、わざと埋め込まれてる」
「時刻?」
美月が呟く。
録音の透は具体的な数字を読み上げた。
「二十三時三十八分。零時十三分。一時四十四分。ほかにもある」
澪は最初の数字を聞いた瞬間、七刻女学校の理科準備室を思い出した。
八年前、澄花が閉じ込められた時刻として何度も現れた午後十一時三十八分。
透の死亡時刻である午前零時十三分。
そして午前一時四十四分という別の数字が、不規則に並ぶようでいて、透には意味のある列として見えていた。
蓮司が持っていた資料を開き、午前一時四十四分という数字を探した。
指が止まったのは、園村香苗の事故記録ではない。
常世荘が建つ以前、人形供養堂で起きた火災に関連して搬送された女性が、その後、病院で死亡した推定時刻だった。
当時の短い新聞記事には火災による死者なしと書かれていた。
だが、後年の戸籍や周辺記録を蓮司が調べた結果、火災当日に重傷を負った関係者の女性が数時間後に亡くなっていたことが分かる。
午前一時四十四分という数字は、怪談のために選ばれた時刻ではなく、実際に一人の人間が死んだ時間だった。
録音の透が続ける。
「最初は怪談の時間だと思った。そういう噂って、十二時とか二時とか、決まった時刻に起きるから。でも違う。調べたら、先に死んだ人がいる」
キーボードを叩く音が続いた。
「誰かが怪談に死を合わせてるんじゃない」
透の声が少し低くなった。
「死んだ時刻を使って、後から怪談を作ってる」
六人の間に沈黙が落ちた。
七刻女学校の七不思議も、常世荘の女が消える部屋も、戻り橋の死者からの着信も、噂だけを見れば古くから存在する怪談のように思える。
しかし調べるほど、実際の事故や犯罪のあとに話が膨らみ、決まった時刻や手順が付け足されている。
「だから戻り橋も、香苗さんの事故のあとにできた」
奈々香が言った。
「最初から『死者が電話する橋』だったわけじゃない」
美月は頷き、園村香苗の事故記録を見た。
香苗が午前零時四十四分前後に死亡し、その十五分後に母親へ電話があったという出来事が核になり、そこから「帰っておいでと言うと戻る」という規則が広がった。
怪談が事件を引き起こしたのではなく、事件が怪談の材料へ変えられている。
朔は無線中継器の設置状況を思い返すように橋の山側を見た。
誰かが古い死亡記録を調べ、その時刻に合わせて装置を動かしているなら、現在の怪異に過去の時刻が繰り返し現れること自体は説明できる。
蓮司は、十三年前の電話まで人為的だったとしても、現在仕掛けを動かしている者と同一人物とは限らないと付け加えた。
録音はまだ続いていた。
透は複数の音源を比較し、澄花が失踪する以前の古い地域記録まで調べていたらしい。
声は普段と変わらないが、途中から何度も背後を確認するような物音が入り、最後には録音レベルを下げて囁きに近い声になっていた。
「問題は、時刻が記録じゃなくて予定表として使われてる可能性があること」
澪は息を止めた。
「過去の死亡時刻を並べて、同じ間隔とか数字を繰り返してる。もしそうなら、次に誰かが死ぬ時刻も、もう決められてるかもしれない」
音声の奥で通知音が鳴る。
透は何かを見たらしく、数秒沈黙した。
「誰が決めてるのかは分からない。でも、俺たちの中にいる誰かの時刻が、もう音声に入ってる」
「私たちの?」
奈々香の顔色が変わる。
録音の透はそこで人物名を言わなかった。
代わりに、ファイルを別の場所へ移す操作音が入り、最後に短く息を吐く。
「これを見つけたら、時刻だけは無視するな。ただし、時刻に従って動くな。そこがたぶん罠だ」
音声はそこで終わった。
悠斗は眉間を押さえ、「無視するな、でも従うなって、どうしろってんだよ」と吐き出す。
美月は、時間そのものは危険を知る手掛かりだが、指定された行動や場所へ誘導されることまで受け入れるなという意味かもしれないと答えた。
透がどこまで把握していたのかは分からない。
だが少なくとも七刻女学校へ入る前から、自分たちの周囲で死亡時刻が利用されていることへ気づいていた。
だからヘッドフォンへカードを隠し、自分が戻らなかった場合に誰かが発見することを期待した可能性がある。
「でも、なんで俺たちに言わなかった」
悠斗の声には怒りより悔しさが混じっていた。
「門へ入る前に言ってれば――」
「確証がなかったんだと思う」
澪は透の性格を思い出した。
推測だけで騒ぐことを嫌い、音の違いを何度も確認してからようやく口にする人だった。
しかも八年前の澄花の音声を独自に追っていたこと自体、誰かに知られたくなかった可能性がある。
蓮司はカード内の残りファイルを確認するよう朔へ指示した。
だが別の音声を開く前に、電子音が橋の上へ響いた。
奈々香のスマートフォンだった。
「また透?」
奈々香が画面を見る。
直後、顔が固まり、端末を握る指先から血の気が引いた。
「違う」
「誰?」
彼女は答えず、画面を美月へ向けた。
発信者表示は〈白石奈々香〉だった。
自分自身の名前。
番号を確認しても、奈々香が現在手に持っている端末と同じ電話番号が表示されている。
「番号偽装」
朔がすぐに言う。
「出ない」
奈々香は両手で端末を握り、応答画面から指を離した。
戻り橋へ来てから、死者の番号、存在しない設備、自分たちの行動を知る留守番電話が続いている。
自分自身からの電話など、まともに受ける理由はなかった。
着信音が二度鳴り、奈々香は拒否ボタンにも触れないまま画面を睨んでいた。
三度目の音が鳴った瞬間、誰の指も触れていない画面が勝手に切り替わる。
〈通話中〉という表示が現れ、そのまま端末は自動的にスピーカーへ切り替わり、音量表示が最大まで上がった。
「え……?」
ざあ、と雑音が流れる。
その奥で、女性が一度息を吸った。
奈々香自身の声だった。
「白石奈々香」
奈々香の顔から血の気が引く。
「死亡予定時刻、午前一時十三分」
誰も声を出せなかった。
機械的な読み上げではない。
奈々香本人が、自分の名前と死亡時刻を淡々と告げている声だった。
少し早口になる癖も、語尾で息を抜く音も一致している。
「こんなの録ってない」
奈々香が首を振る。
「絶対に録ってない」
端末のスピーカーから、もう一度同じ声が流れた。
「白石奈々香。死亡予定時刻、午前一時十三分」
美月が腕時計を見た。
針が示しているのは午前零時三十一分で、指定された時刻までは四十二分しかない。
奈々香も数字を確認した途端、呼吸が急に浅くなり、端末を取り落としかけた。
「あと四十二分」
美月はすぐ奈々香の手首を取り、脈を数えながら、予告された時刻そのものに医学的な意味はないと言い切った。
今の血圧や意識状態に、四十二分後の急変を示す兆候はない。
だからこそ、午前一時十三分という数字は身体から導かれたものではなく、誰かが外側から決めた時刻として扱うべきだった。
「死ぬ時間を当てられたんじゃない」
蓮司も奈々香の正面へ立った。
「誰かが、その時間にお前へ何かするつもりだと考える。なら、その前提を潰せる」
奈々香は何度も頷いたが、唇の震えは止まらなかった。
死者の時刻から怪談を作っているという透の録音を聞いた直後に、自分の死だけが未来形で告げられたのだ。
澪には、それが単なる脅迫より悪質に思えた。
相手は奈々香を殺すことだけではなく、四十二分間ずっと自分の死を想像させることまで計算している。
「車に戻る」
蓮司が即座に決めた。
橋の中央にも斜面にも奈々香を近づけず、絶対に一人にしない。
朔は周辺の遠隔装置と車両を調べ、悠斗は警察へ状況を追加連絡し、美月は奈々香の状態を継続して確認することになった。
全員が動き始める中、澪だけは奈々香のスマートフォンから目を離せなかった。
通話はすでに切れている。
画面には〈白石奈々香 午前0:31〉という発信履歴だけが残っていた。
その下へ、見覚えのない予定が自動的に追加されていた。
時刻は午前一時十三分。
予定名は一文字もなく、代わりに黒い棺のような小さな記号だけが表示されていた。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の